オックスフォード大学での滞在があと4分の1。火曜日のセミナーも、ここでの滞在の振り返りのモードになっている。今の時点で少しずつ明確になってきた二つのビジョンを記しておきたい。この年齢になって、このような夢物語を語ることができるのは、幸せなことなのだと思う。具体化の方策は、今のところ全くない。
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日本における医療人文学の展開のための学びをすることをテーマに時間を過ごしている。幸い私のメインチューターであるEricaの配慮によって、医療人文学の最先端の若手研究者をチューターとした、刺激的な時間を過ごしている。才気に満ちたエネルギー十分の各チューターは、この初老の日本人と順番に2週間ごとにセッションを持ってくれている。あらかじめオンライン等で学びの焦点を定めると、2~3日で5~10本文献リストが(論文はそれぞれ20頁ほど)届く。これに基づいて3~4頁のエッセイを書いて前日までにチューターに送り、当日は60分ディスカッション。論点の弱さをついてくることはほぼゼロで、こちらの議論を丁寧に聞いてくれる。これは私にだけ特別なのではなく、オックスフォードのチュートリアルの教育姿勢なのだと思う。研究指導におけるパワーの傾斜が感じられることはない。学問に向かう対等なパートナーとしての対話、という感じ。実感されるのはEmpowerment。おそらく、学部生・大学院生とのチュートリアルも同じような雰囲気なのであろう。この大学が世界有数(ちなみに Times Higher Education によると8年連続第1位)と言われるのは、このチュートリアルを受けチュートリアルを行う中で培われた、学問への姿勢によると感じられる。
実は彼女ら彼らにとっても、専門分野を跨いで「医療人文学」を学ぶという枠でアプローチしてきた研究者これまでおらず、このようなチュートリアルをするのは初めてだという。それでいて、初学者への手加減はない。私の方も、これまでの学びと経験をフルに動員して、テーマのコアを逃さないように努力しているのは確か。神学・哲学・人類学・歴史・文学・美術それぞれの専門研究に食らいついてゆくのは、40年ほどの研究生活をしている60代後半の私にとっても(or であるが故に?)なかなかのストレッチ。50年前の学部教育の中でLiberal Artsの大切さを仕込まれ、それを軸にこれまで過ごしてきたおかげを感じる。医療人文学という学問領域の広がりと深みについて、ある程度の視野が持てたように思えている。
ここまできて、言語化してみると、医療人文学には明確に2つの領域がある。
一つは、あえて名付けるなら「実践医療人文学」。現代医療は、科学的な根拠に基づくサイエンスを基礎とし、最大の効果を上げてきている。そこには、患者の全人性ではなく疾患やそのデータに注目するという不可避の傾向がある。これを補い、患者の一人称経験を大切にすることによって医療実践をバランスの取れたものにするため、臨床実践に向けた医療人文学がある。これを実現するためには、医療者個々への教育と同時に、ケア諸分野の専門職によるチーム医療が必要になる。また、医療教育への位置付けも大きなテーマ。St Catherine’s Collegeを中心とするValues-based Practiceの研究と英国医療制度への働きかけ、がモデル。私のオックスフォードでの学びと関係づけると、Chaplaincyの役割の明確化・専門職養成・医療制度内という課題が見えてきている。英国健康保険システム National Health Service におけるチャプレンの働きの研究が伊藤にとっての宿題。その先には日本医療制度への取り組みがある。この領域のリーダーであるProf. Bill FulfordやProf. Ashok Handaは、以下に述べる医療人文学基礎領域の研究の広がりが不可欠だと言う。
もう一つは「基礎医療人文学」。健康という人間存在の側面そしてそれに向き合う医療という人間の営みを広い文脈の中で振り返る営み。神学・哲学・人類学・歴史・文学・美術などをはじめ諸学問分野が、それぞれ「健康」「医療」などのテーマを扱っている。オックスフォード大学においても、それぞれの専門家が医師養成課程で数回のセミナーを実施するようになったのは、近年のことだという。人文学と医療教育との具体的融合について、日本が特別に遅れているわけではない。この数ヶ月の伊藤の気づきは、医療人文学研究は日本にもすでに数多くある、ということ。現代に限って言えば、伊藤亜沙、磯野真穂は明らかに医療人文学者、遠藤周作や帚木蓬生そして市川沙央(『ハンチバック』)は医療文学者、前回紹介した野田正彰は医療史研究に絶大な貢献をした。患者の当事者研究や活動そしてその研究も重要。日本に医療人文学が不在なのではない。それらの研究を総体として捉える視点が不在なだけ。
これらのことから生まれる一つ目のビジョンは、日本の医療人文学的な学術研究を総体として捉え記録に残すアーカイヴの設立。もちろん研究成果や作品そのものが収集できるに越したことはないが、現代のデジタルな世界を考えると、差し当たっては文献や資料のリストの作成と、それらが今後着実に更新されてゆくための体制の構築。その上でさらに夢を広げるならば、例えば Oxford 大学の Bodleian Library system とのリンク。世界中の研究者が、このアーカイヴを通して日本の医療人文学の成果にアクセスできるようにしたい。
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第二のビジョンは、私自身のスピリチュアリティに関わる。
日本のアクティブ・クリスチャンの人口比は0.5%以下と言われる。半分はカトリック、もう半分はプロテスタント諸派、一握りの方が正教会の流れに属している。この感覚はカトリックの方達とはニュアンスが違うのかもしれないが、私の場合(知的営み並びに教育に携わっているせいもあり)キリスト教信仰はその神学や教会論の「理解」に根ざしている。少数者としてアイデンティティ確認のため「理解」を深めること、弁証的apologetic であることが大切だった。そしてこの姿勢は宗教上の「権威」との関わりに大きく影響していることに、今回のオックスフォード滞在中に気づくこととなった。信仰に向けて、教会に向けて、スピリチュアリティに向けて、神に向けて、知性を働かせている自分がいる。英国教会は神学の源泉に聖書・伝統(歴史)・理性の三者を置き、そのバランスと相互性を大切にする。しかし、米国西海岸で神学を学んだ私は、理性の相対性を学び、伝統を批判的に解釈し、聖書を文献として研究する姿勢を身につけた。自分の世界理解の相対性を対話の中で検討し続ける姿勢も大切にしている。宗教上の「権威」には納得した上で関わる。
今回全く異なる信仰体験をしている。それは、Choral Evensong の音楽に身を委ねる経験。大きな信仰の歴史・伝統の中に存在する自分を直接に「感じ」る。もちろん音楽を分析的に聴くこともできるが、それを許さない圧倒的な教会音楽の権威を心地よく味わっている。そして、ここに英国教会のスピリチュアリティが根差している事を確信する。この伝統は英国各地のカテドラルとオックスフォード&ケンブリッジのカレッジチャペルに維持されている。神学とは、このコンテキストの中においてバランスを保ちながら展開する知性。ただし私の感覚では、Choral Music であることが必須のように思える。人間の声とその重なりが、人間と神とを結ぶ。
先週の金曜日に、大学のSheldonian Theater で Choir of the Queen’s College, Oxford とAcademy of Ancient Music によるJ.S.Bachのロ短調ミサを聴いた。指揮はQueen’s College のChoir Director でありOxford大学のProfessor of Music の Owen Rees。これまでの人生最高のコンサート。ここでもEvensong 同様のスピリチュアルな経験が味わえた。このことについては、稿を改める。
しかし英国神学の課題は、上記からもわかるように、そのエリート性(Oxford & Cambridge)。この教会音楽のコンテキストがなければ、核心が伝わらない。反対に、この500年以上にわたる教会音楽家たちの作品の演奏が継承されさえすればそれで良い、とすら言える信仰。ここに私のもう一つのビジョンが生まれる。
日本に、Evensong Chapel を設立する。
場所も資金も今のところ全く目処はない。必要なのは最高レベルの合唱集団。週に何回かEvensong の礼拝の中で500年の教会音楽のレパートリーを広くコンスタントに歌い続ける。
神学を中心に立てる礼拝空間ではなく、音楽によるキリスト教スピリチュアリティの空間。幸い西洋音楽は(キリスト教とは異なり)日本の文化に十分根付いている。それを中心に日本人のスピリチュアリティを養う空間を立ち上げる夢。信仰は問わない。
Merton CollegeやQueen’s CollegeのChoirは、そのカレッジに属する学部・大学院の学生によって成り立っている。必ずしも音楽を専攻している学生ではない。オーディションを受けChoirに加わり、Choir Scholarship を得て学業を続けながら、ほぼ毎日異なる教会音楽合唱曲を数曲ずつ歌う。上記ロ短調ミサの演奏でソプラノのソリストとして招かれたJulia Doyleは、かつてCambridge大学で Choir Scholarshipを得て政治学を専攻していたという。メゾソプラノのEsther Layは、Queen’s College, Oxford の Choir Scholar で、哲学と神学を修めた。
日本では、おそらく音楽大学生を中心に居所の提供という形で実現できるのではないか。週に何回か、礼拝参加者が居ようが居まいが、ただ礼拝形式の中で中世からの教会音楽を歌い(捧げ)続ける。その学生の卒業に伴い、メンバーは常に変わる。音楽大学生に、見逃されている西洋音楽のコンテキストを体験する生活を何年か過ごしてもらうことは、日本の音楽教育にとっても意義のあることだと思う。
もう一つ不可欠なのは、この私の感覚を共有するChoir Director。もちろん英国から1年契約のような形で招聘するのも大切だが、このビジョンの核になる音楽家の協力が必要。
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実現の根拠が皆無の二つのビジョン。ただ、ここに書き残しておかなければ、消えてしまう。書き残すことによって、誰かの共感が得られれば、私でない誰かがいつが実現してくれるかもしれない。
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以下、毎回のお願い:バックグラウンド・リサーチが不十分なものも掲載します。限られた体験に基づく主観的な記述が中心となります。引用等はお控えください。また、このブログ記事は、学びの途上の記録であり、それぞれのテーマについて伊藤の最終的な見解でないこともご理解ください。Blogの中では個人名は、原則 First Name で記すことにしました。あくまでも伊藤の経験の呟きであり、相手について記述する意図はありません。
伊藤高章 t.d.ito@sacra.or.jp