”Medical Humanities and Theology” 領域で Dr. Andrew MoellerとのTutorial。英国の国民皆保険制度であるNational Health Service (NHS) における チャプレンの位置付けについて考えたいと、具体的なテーマについてはこちらから提案していた。事前に検討すべき文献として送られてきたものの中心が、van Dijk, Lindsay Jane. 2021. “Humanist Chaplains Entering Traditionally Faith-Based NHS Chaplaincy Teams.” Religions 12。
国教会制度の英国において、医療におけるチャプレンは当然のこととして存在してきたが、1948年からは 、NHSが健康保険施設へのチャプレン配置の責任を持つこととなっている。しかし宗教多元性や宗教離れといった社会の変化の中で、伝統的に英国教会聖職者とボランティアからなる医療施設チャプレン制度に大きな変革が迫られてきた(Swift, Christopher, 2014. Hospital chaplaincy in the twenty-first century: The crisis of spiritual care on the NHS. Ashgate Publishing; Swift, Christopher ed., 2015. A Handbook of Chaplaincy Studies: Understanding Spiritual Care in Public Places. Routledge Contemporary Ecclesiology. Routledge)。2015年にチャプレン制度ついての新たな指針が示された(NHS England. NHS Chaplaincy Guidelines 2015: Promoting Excellence in Pastoral, Spiritual & Religious Care. [https://www.england.nhs.uk/publication/nhs-chaplaincy-guidelines-for-nhs-managers-on-pastoral-spiritual-and-religious-care/ ])。この中で、キリスト教諸宗派チャプレン・諸宗教チャプレンはもちろん、非宗教者 non-religious チャプレンも制度の中に事実追認の形で位置付けられることとなった。Van Dijkの論文は、その制度の意味合いを検討するとともに、非宗教者チャプレンの必要を論ずるものだった。
与えられた essay 論題は、〈チャプレン(宗教者・無宗教者を問わず)は患者の「なぜ私が?なぜ今?」といった実存的な問い existential questions にどう答えることができるのか〉というもの。論題への応答自体にあまり悩むことはないが、与えられた文献との取り組みや、それを essay のスタイルで提出するのには苦労する。(最近まで英文を書くときに、文法の誤りが無いかに神経をすり減らすことが多かったのだが、AI 技術が Word に組み込まれており、書いている中で文法修正をしてくれるのが本当に助かる。)私は、いつものように “patient” という表現は用いず、今回は “Person with Healthcare Conditions (PHC)” と表現を変えてessayを書いた。
3ページほどのEssayでは、三つの視点をあげた。第一は哲学的視点:「実存的な」と性格づけられる問いにチャプレンが「答える」という論題の構造自体が、哲学的に矛盾している。英語圏では、哲学的テーマについて信頼できるリソースとして、Stanford Ecyclopedia of Philosophy [https://plato.stanford.edu/index.html ] がある。「実存的」という理解は、当事者が身体性を持ってその事態に取り組む engage 中でこそ意味を見出すことができる、というもの。定義からして、他者が答えを出すことはできない。Andrew は面白そうに、Tutorial の論題には「罠」を仕掛けておくこともある、と語っていた。加えて私は、チャプレン自身もなぜこのタイミングでこのPHCに出会ったのかという実存的問いに招かれていると論じた。第二にケアの視点:ケアの中心に PHC の empowerment を置くとすると、その内容がいかなるものであれチャプレンが答えるということ自体が disempowerment 。たとえ時間がかかり苦悩が伴ったとしても、PHC 自身が独自の答えに辿り着くことができると信じ(そこにはチャプレンの信仰が問われる)、PHC の模索に寄り添うことこそがチャプレンの役割であると論じた。第三にコミュニティーとナラティヴの視点:Van Dijk は無宗教チャプレンの導入を支持する中で、社会の宗教離れを根拠にPHCと同じ価値観 like-minded を持つチャプレンを取り入れる必要を説く。私はそれには全く共感できない。私の立場は「全ての Interface(出会い)は Inter-faith(異なる価値観の出会い)」。上記の empowerment を前提とした上で、チャプレンの帰属(もしくは無帰属)よりも出会いの質とそのための教育が大切と考える。同時に、PHCもチャプレンも、共に内面にその個人を育んできたコミュニティ・学び・経験に基づく様々な分人(dividuals; I-positions)を抱えており、具体的な語りはその都度 dividuals の内的対話 dialogue の中から生み出される(Hubert Hermans: Dialogical Self Theory, DST)という視点も大切。物語 Narrative の傾聴は、そこにミクロレベルでのコミュニティの融合が実現する可能性がある。またこの論文では、 Religion と Spirituality が話題になっている。これについては、Koenig,H.G., et al. eds (2023). Handbook of Religion and Health. Third edition. NY:OUP.の 第1章 “Definitions” が参考になる。
よく言われるように、Oxford や Cambridge における教育の中心は上記の tutorial 。テーマとそれに関する論文数本が予め指定され、 週1回、学生は前日までにessayを書いて提出した上で tutor のオフィスを訪ね、essay の内容やテーマについて約1時間 discussion する。文献の読み方、議論の展開、問題理解等について総合的に訓練される。英国大学教育の主流は、アメリカや日本のような科目ごとに単位を履修する制度ではない。3年間の大学教育の終わりに専攻ごとの卒業試験が行われ、その結果に基いてクラス分けされた学位が授与される。試験のために Examination Schools という名前の建物が、大学中心部に建てられている。学部によって開講される講義 lecture への参加は全く自由。学生は、通常3年間、tutor の指導を受けながら、講義を受講し、文献を読み、必要とされる知識や研究に親しむ。Tutorialは、大学教育の指針を与えてくれる中心的な教育制度。
https://conference-oxford.com/venues/examination-schools
学部学生にはTutor として所属するcollegeの中堅研究者が指定されるが、我々ONHPのメンバーには、それぞれの研究関心に応じてその分野の主任教授が当たることが多い。私のTutorは、The Oxford Reseach Centre in the Humanities (TOARCH) の Medical Humanites 研究部門 Oxford MedHum の部門長である Prof. Erica Charter。戦時下の軍隊における医療の史を専門とする。以前書いたように、私の場合は Medical Humanities 全般を見通したいと希望したので、専門を異にする(theology, philosophy, anthroplogy, hisotory, literature, art など)tutor とのセッションを組んでくれた。
日曜日は、Christchurch の Evensong に参加した。Christchurch のチャペル は Oxford大学の一つ college の Chapel であると同時に、英国教会のオックスフォード教区 Diocese of Oxford の主教座聖堂 Cathedral でもある。当然、他の college chapel とは建築の規模が異なり、音響も違う。アンセムで演奏された Schütz: The Pharisee and the Publican のカウンターテナーが素晴らしかった。このカレッジの食堂は、ハリーポッターに登場するホグワーツ魔法学校の食堂が撮影された場所として有名。
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